あの時のあの味
忘れられない味
(丹波栗と栗ご飯)
やっと秋の気配が感じられる、9月の下旬でした。丹波篠山から有馬温泉で一泊するちょっとした、小旅行を楽しみました。
京都を出発して、初めに兵庫陶芸美術館に行きました。
去年の10月にオープンしたこの近代的な美術館は、主に丹波焼きを展示するために出来たそうです。
次に、少し山間(やまあい)に入ったところにある、達身寺というお寺に行きました。
この地方には、その昔(鎌倉時代)丹波仏師がいて、沢山の仏様を作っていた説があるそうです。元禄八年、この村に疫病が流行りました。村人は、達身堂(たるみどう)を造り、山に放置された仏様や、未完成の仏様を安置したのがお寺の始まりだと言われています。ご本尊の阿弥陀如来像もとても立派でしたが、手のない仏様や、顔のかけた仏様の前で思わず手を合わしていました。帰りにお寺でお守りでも買おうと思っていたら、栗を売っていました。丹波はやっぱり栗やと思い買って帰りました。
旅行から戻って早速栗ご飯を炊きました。少し塩がきいて、栗の甘味がひきたった、ほくほくした美味しい栗ご飯が出来ました。
丹波篠山と言えば、丹波栗に松茸、黒豆に小豆、自然薯と、本当に美味しいものが沢山とれます。まだコンビニ等ない頃、実家の仕出し屋は、秋は行楽弁当の注文で大忙しでした。出し巻きや、蒲鉾、海老等入っている折詰弁当に父はいつも、栗の渋皮煮をいれていました。栗の渋さがとれて、それは上品な甘さでした。秋の行楽シーズンが終わると、お正月用に、黒豆をいっぱい煮て瓶詰めにしていました。おたべちゃんのお兄さんは、子供の頃、いつもこのおじいちゃんの黒豆がないと機嫌が悪くなりました。
もう一度栗ご飯を作ろうと、錦市場に栗を買いに行きましたが、その店は愛媛の栗しかありませんでした。前の時と同じように、少し塩をきかせお酒と昆布を入れて栗ごはんを炊きましたが、丹波栗のような、ほのかな甘さは出ませんでした。
京都のおばんざいの中で、であいもん(出会い物)と言われるものがいくつかあります。たとえば、身欠きニシンと茄子、イカと小芋、棒ダラと海老芋、筍とワカメ、生ぶしと焼き豆腐、お揚げさんと水菜等です。どれも本当になくてはならない相手だと思います。中でも身欠きニシンと茄子は、夏のおばんざいとして子供のころから、本当によく頂きました。あの丸い京の加茂茄子は、京野菜として有名になりましたが、やっぱり煮物には山科茄子がとろっと煮けておいしくニシンとの炊き合わせには欠かせません。
ところが最近は、地の茄子(京都産)と表示されているものは純粋の山科茄子ではないそうです。本当の山科茄子は、昭和初期まで京茄子の主流を占めていました。皮が薄く、肉質が軟らかく、種がすくなく、煮物はもちろんの事、焼きなすや、どぼずけ(ぬか漬け)に最適でした。ただ、収穫すると濃い紫色が変色したり、傷付いたりと、大変品質管理が難しく、現代の流通には不向きとなって品種改良されてきました。山科の農家で作られている茄子も、今やほとんど品種改良されたものだそうです。
今月はおたべちゃんのお誕生日月なので大好きなお茄子を炊いてみました。秋茄子は嫁に食わすなとよく言われますが、9月頃のお茄子は本当に美味しいですね。山科の農家の渡辺くんが届けてくれた茄子はニシンの味がしみこんで、本当に美味しく炊けました。であいもんの味は、両方の味を引き立てるなんともいえない味のハーモニーです。この味を、子供の頃より憶えていたから、今日は特においしくたけたように思います。そして祇園に住んでいたおばあちゃんのお茄子の煮いた味も未だに忘れられません。おたべを売り出して間もない頃、よく手伝いに来てくれました。その頃は、お店の人や家族含めて昼食の用意は十人程になります。おばあちゃんは、「千重子さん、何かお手伝いしましょか!」と言って腰の曲がった小さな体で、いつもお鍋いっぱいに、ニシンとお茄子を炊いてくれました。ニシンは丁寧にゆっくり湯がいて、その湯がき汁を少し残して炊く祇園のおばあちゃんのたき方で、今も炊いています。京のおばんざいのであおもん(出合い物)の妙味を、次の世代に伝えていきたいと改めて思いました。
参考文献「四季の京野菜とおばんざい」(NHK出版)
昔から「暑いも寒いも彼岸まで」と言われますが、本当に涼しくなりました。少し秋の気配を感じると、やっぱり松茸が気になります。
先日、寺町三条にある「とり市」さんへ行ってみました。顔なじみのいつものおじさんは、私の顔を見るなり、「今年はほんまに暑かったので、送る分はまだでんなー」と言われてしまいました。毎年、わが社では、とり市さんの松茸を東京のお客様に送るのが、恒例になっています。その時に、私が作った松茸料理の色々をのせた「栞」も一緒に送っています。今年は松茸ご飯の作り方を栞に載せようと思い、買いにいきましたが、この日は信州の松茸しかありませんでした。
最近は、九月頃から、韓国や中国産の松茸がでまわっています。さすが老舗のとり市さんでは、京都の丹波産のものを主に扱っています。そのなかの一つの周山の松茸は「都松茸の一つ」と言われ、鎌倉や、室町時代の公家や貴族が珍重していたそうです。京都府産の松茸の収穫量は、昭和十六年をピークに年々、信じられないほどに減っているそうです。私が小学生の頃、(昭和二十年代の後半)松茸のすき焼きがよく食卓にのぼりました。松茸の時期の終わりには、母は笠の大きく開いた松茸を細かく刻んで、大鍋一杯の松茸いり塩昆布を炊いていたのを思い出します。
今度は送る松茸を見に、再びとり市さんに行きましたところがいつも店先にいるおじさんの姿がみあたりません。どうしゃはったんやろと思ったら、店の奥で隠れるようにすわっていました。
「見とくりゃす!このとうり品物があらしませんのや、そいでお客さんが来はったら隠れていますのや!」と言われました。不作の原因の一つになっている異常気象は、多くの原因で起こってきています。とり市のおじさんは、それをまるで自分の責任のようにお客さんに申しわけなさそうに言い訳しておられるのに感動しました。
毎年の10月22日は、京都の3大祭りの一つである時代祭の日です。この華やかな時代行列は、明治の初め頃に、荒廃した京都を回復させるために行われたもので、当初は六行列でした。今は十八行列二千人を超える大時代絵巻が繰り広げられます。時代祭は、今もずっと市民の祭りとして息づいてきました。そして、京都市民のひとりひとりが主役だそうです。その主役の一人として、鎌倉時代城南流鏑馬列の大将に、「美十」(旧おたべ)社長酒井宏彰が選ばれました。おたべちゃんも、舞妓に出る前に童(わらべ)に選ばれ時代祭に出た事があったそうです。当日、武将の立派な衣装(狩衣)を身につけ、太刀や矢、弓を持って馬に乗った社長は、本当に大将になったようでした。幸い天候にも恵まれ、無事大役を果たす事が出来ました。
時代祭に社長が出ると決まった時、横浜の姉に電話をしました。すると姉は、「めったないことやし、京都にいくわ!」と言って当日、遠方より来てくれました。
次の日、二人で母のお墓に行く事になりました。母の事を色々話ながら、お花を買いましたが、お線香とろうそくを忘れてきました。母の墓前にお花だけ供えて拝んだ後、清水さんから産年坂を通って、高台寺、祇園さんまで歩きました。お昼にお蕎麦を食べることになりました。姉は迷う事なく、「私はにしんそば」と言いました。東京にも「にしんそば」はあるのですが、何か京都の味と違うそうです。次に「錦小路」を歩く事になりました。京野菜の店には、もう赤い京人参が並んでいました。二人して思わず、母のかやくご飯を思い出したのでした。母は、この赤い京人参の出る頃、かやくご飯をいっぱい炊いて、ご近所によく配っていました。いっぱい入ってる具のなかで、この京人参の甘さがひきたっていました。姉はホームページにのせる京人参の絵を描いてあげるといって、京人参を買いました。そして、懐かしい京都の味やと言って、出し巻きも買いました。帰り道で姉は、「横浜に住んでる方が長いけど、京都の味と母の味は忘れられへんな~」と言って横浜に帰って行きました。